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インターネットから見える社会矛盾と人権
〜 子どもたちが利用するインターネットから見えてきたもの 〜(第1部)
インターネット上の問題について研究所で一定まとめたものを3部にわけて掲載させていただきます。あくまで一部の情報でありますので、今後書籍を発行できれば、さらに詳しく掲載したものを提供させていただく予定です。 インターネットはここ十数年の間に驚くほどの勢いで、私たちの生活の中に入ってきた。インターネットができるまでは事実上、個人が世界中の人々に情報を発信することなど絶対に不可能だったが、これが可能になった。そして年々普及率や利用者が増加し、2006年では、日本に在住する人々の68.5%がインターネットを利用している。 インターネットにはさまざまな機能があるが、代表的なものとして、ホームページでの啓発や情報発信、検索、電子メールや掲示板、チャット(インターネット上で二人以上の相手とリアルタイムで交信すること)などでの意見交流、ネットショッピングやチケットの電子商取引などがある。 マスメディアは、2007年に入って「学校裏サイト」の問題を取り上げはじめた。大きな影響力を持つマスメディアの力で、多くのおとなが危機意識を持つことができ、今後多くの子どもが救われることにつながればと思う。 しかし、残念ながら三重県の現状は、私が把握している限り、学校裏サイトの存在は6年以上も前からすでに子どもたちの間で存在している。さまざまな場でのあいさつなどで、インターネットの問題について話を聞く機会があったはずだが、「インターネット上の問題には、いったいどのようなことが起きているのだ」と認識を深めようとしてこなかったおとなの怠慢によって、三重県ではこの6年間で多くの子どもたちが傷つき、学校を自主退学せざるを得ない状況に追い込まれている。三重県で起きている人権の課題が、他の都道府県では起きていないということはあり得ないことであり、これまでメディアで取り上げられてきたが、多くの子どもたちが自らの命を絶って、おとなに訴えかけてきた。ただ、代償は取り返しのつかない、とてつもなく尊い子どもたちのかけがえのない命だ。おとながつくった道具で子どもたちが遊び、そのおとながつくった道具は現代までは多くの場合、注意をされることもルールが設定されることもなく、さまざまなかたちで悪影響を受け続けている。 おとなが子どもに携帯電話を買い与える背景には、「居場所がわからない場合でも、連絡がとれて安否の確認ができる」というとても便利な「電話機」であるという認識がある。しかし、子どもたちは、インターネットに接続してホームページ(ケイタイサイト)を見たり、電子メールを送ったりする情報器機、つまり手軽に持ち運びのできる「コンピューター」として使用している。ここで既に、子どもとおとなの携帯電話に対する認識に大きな違いが生じている。今の時代の子どもと今の時代のおとなではなく、おとなの意識は過去のままなのである。 実際にあった三重県内の事例を紹介してみる。 私がこの問題に出会ったきっかけは些細なことである。2005年2月になるが、知り合いの高校生が携帯電話を差し出し、「こんなものがある」と携帯電話の掲示板を見せてくれた。そこには、携帯電話でしか閲覧できない掲示板が表示されており、「高校生の多くがこの掲示板を利用している」と教えてくれた。これは全国的な規模のサイトで、1日のアクセス数は数十万から数百万ほどと言われている都道府県別掲示板である。 内容には個人名がまともに書き込まれており、何人かが個人名をあげられた子を誹謗・中傷されている。書かれている内容には、「●●、うっとーしいねん。死んでしまえ」とか、「●●、おまえみたいなブスは消えてなくなれ」「キモイ」「ウザイ」など、悪質極まりない内容が書かれている。最近では、県内の某高校1年生の女子生徒が、クラス内で友だちとうまくいかず、その子をよく思わない生徒が掲示板に個人名をあげ、何人もの生徒がその子に対する誹謗・中傷を書き込み、それが原因で学校を辞めていった。またこれと同様に学校を辞めている生徒が2006年4月から7月までのわずか3ヶ月の間に、他にも2名いることがわかった。 「あの子すごく泣いてた。学校のクラスの中で嫌がらせされていじめられてたんやって。『先生に言いさって』言うたんやけど、『信頼できひんからもっと酷いことになって、また掲示板に書かれる。親に言うてもどうせ学校に言うから一緒のこと。もう書かれるのも辛いからやめる。ほんまはあの学校行きたかった』って言うてた」である。おとなの責任は重大である。インターネットのことに注意しないどころか、現実で学校生活を送っている子どもとすら関係性が築けていないのである。学校だけの問題ではなく保護者だけの問題でもない。すべてのおとなの問題である。 マナーモードにすれば音がでない、画面を見なくても電話のボタンの「5」の部分には必ず「点」が付いているが、これはユニバーサルデザインである。それを基準にすれば子どもたちは教師が授業をしている様子をうかがいながら携帯電話でインターネットに接続し、ネット上で私語ができる。実際に授業中に教壇に立っている教師を中傷しているどころか、学校別掲示板をカンニングに利用しているケースも発覚した。 携帯電話を持ってくるなと言われて持ってこない子どもはほとんどいない。子どもたちが言うには、携帯電話は、「命の次に大事」らしい。電話を買い与えた保護者がルールを設定しないだけでこんなことが起きてしまう。「今時の子どもは」と言うが、そんな子どもを生み出してきたのは、「今時のおとな」である。 インターネット上での特定個人に対する誹謗・中傷行為について問題点がいくつかある。 靴箱に「不幸の手紙」を書いて入れる、陰口をたたくという行為がインターネット上で行われるようになったのだ。当人に直接嫌がらせをする、靴箱に何かを忍ばせる、いじめの対象となっている生徒の所持品を隠したりすることもすべては現実でリスクを背負う。「万が一、人に落書きしているところを見られたら」という心理的なバリアが現実世界では働く。しかし、インターネットでは子どもたちはおとなから教えられていないがゆえに、特定個人を誹謗中傷していることが法律違反だと言うことも知らない。知っていても名誉毀損の内容がずれていたりする。子どもたちが抱えさせられてきた現実世界でのストレスなどの負の意識がインターネットの特徴である「時間・場所」といったいわゆる「人の目」という心理的バリアを払拭し、簡単に行為にうつせるようになったのだ。 よく新しい人権課題と取り上げられることがあるが、私はそうではなくて、もともと子どもたちのさまざまな教育、環境下において意識づけられてきたマイナス意識が、いじめという現実で起きた問題を通して、インターネットの特性を通じて表面化してきただけであって、子どもたちの中に他人を見下げる意識や友人に対していやがらせをしてやろう、気にいらないからやっつけてやろうという意識がなければ、こんな問題は起きてこないと感じている。 そして、インターネット上で特定個人に対する誹謗・中傷の他に、デマや偏見に基づく差別書き込み、時にいじめの対象となっている生徒の個人情報が書き込まれてしまうことによって、従来よりも広範囲に特定個人の情報やデマや偏見が知れ渡るということにある。つまり被害者にとって自分の敵が圧倒的に増えてしまったという衝動にかられるのである。 例えば、公衆トイレに書かれた落書きと、インターネット上で同じことをされるのでは、問題性に大小はないが、しかし、それを閲覧する人数は比較にならない。瞬時に広範囲に特定個人に対するデマや偏見が知れ渡る。 現実で起きている落書きは、器物損壊罪に適応されるが、インターネットでは器物損壊罪は適応しない。さらに、現実世界でのトイレ内や壁などへの落書きとは違い、簡単に個人の判断で「消す」という作業はできない。それによって、被害者となっている人々の心だけは壊され続けるという矛盾がある。 匿名という制度は本来、民主主義のためであったが、マイナス面で悪用されている事実は多々ある。匿名は、被害者にとって加害者がさらに見えにくくなるということが人間不信を生んでしまう。被害者にとっては、「私のことを知っている『誰か』が、私に対して、こんなに酷い感情を抱いている。いったい誰なんだ」となって、犯人捜しをしたいわけだが、声をかけた人物が自分に対する誹謗・中傷している人物だとしたら、また掲示板や裏サイトに書かれるのではないかと感じ、「いったい誰に相談すればいいんだ」となって、最悪の場合、「もう誰を信じていいのかわからない」という精神状態に追い込まれる。だから学校をやめざるを得ない状況へも追い込まれるのだ。 この主に中高生が利用する携帯掲示板を見ていくと、中傷されている子を取り巻く環境や学校やクラスの実態が想像できる。知り合いの学生たちから得た情報によると、個人名を書かれた子は、クラスや学年で過ごしにくい状況をつくられていることが多く、その中で教師や保護者のわからないところでいじめにあっている子もいるというのだ。学校内で辛い立場であるはずの被害者に、追い打ちをかけるように掲示板で中傷する。携帯を利用することによって、大勢の人にそれを広めてしまい、さらにプライベートな内容まで書かれれば、恐ろしい事態を引き起こすことにもつながる。 高校生からの情報だけではなく、現実として学校裏サイトや学校別掲示板での被害者が通う学校に私はできる限り連絡をしてきた。私はまず実態把握をプライベート&ボランティアで私個人の携帯電話で学校裏サイトや掲示板の23サイトをモニターしている。2007年からは約10の掲示板を朝6時から7時までの1時間を毎日モニターに費やしている。今までのおとなの怠慢を、私は自分の怠慢でもあったという反省を含めて3年近く続けている。モニターしていかないと自殺者が出てしまうのではないかという状況にあるからだ。 基本的には悪質な書き込みを発見した場合は、まず携帯電話に保存し、削除の依頼を私は自分の名前を必ず記入してメールを送る。多くの内容は、「この書き込みは名誉毀損にあたるので削除をお願いしたい」とか「この書き込みは管理人が定めた掲示板の規約違反にあたるので削除していただきたい」なり、簡潔に「特定個人に対する誹謗中傷行為であるため削除を依頼します」という内容である。 私は1981年生まれであるが、私の学生時代では、一部の生徒が、その生徒の兄が所持しているアダルトビデオを持ってきて回しあっていた。レンタルビデオ屋にいっても通常、未成年はそのアダルトビデオが置いてあるブースに入ることができない。レンタルビデオ屋の多くは、基本的に入り口に暖簾と監視カメラを設置しており、18歳未満立ち入り禁止にしている。 今の時代の子どもたちを巻き込むわいせつ情報は、私の時代とは比較にならないほど、情報量が確実に膨大に増えている。まずインターネットが使える携帯電話は、私の記憶によると高校三年生くらいで入手したくらいだ。ポケットベル世代であった。今の子どもたちを見ていて、自分の時代にこんな携帯電話がなくてよかったと思っている。今の携帯電話は、なんとわいせつ動画が約10分間で、さらに携帯電話会社が提供しているプランである「パケット使いたい放題」という一ヶ月間、携帯電話からインターネットをどれほど接続しても、4,095円の定額で閲覧できるのである。各アダルトサイトには、18歳以上か以下かについての年齢認証が設置されている。これについて中学生や高校生の多くは好奇心旺盛なため、多くの場合は18歳以上として閲覧してしまう。18歳以下でも18歳以上ということで「はい」を選択しても、「フィルタリング」がなされていない場合はいつでも閲覧できてしまう。「あなたは一八歳以下ですので入れません」とはならないのである。年齢認証といっても利用者のモラルでしかない。 インターネット利用の定額制は、レンタルビデオを借りて料金を払わなくても閲覧できてしまうのである。現在ではようやくわいせつ情報をブロックするためのフィリタリングソフトの提供が義務づけられてきた。しかし、それをかいくぐる方法すらインターネットでは流されている。 インターネットだけではないが、わいせつ情報を得た未成年たちが妊娠してしまうという事態を生んでいる。正確には以前からあったようだが、これだけが恐ろしいとは言わない。こういった情報がもたらす影響が恐ろしい。普通、子どもたちがおとなの前で「妊娠してしまった、どうしよう〜」とは絶対に言わない。相談をかけることもほとんどない。子どもは解決したいがゆえに匿名で質問のできる学校別掲示板や学校裏サイトを利用するのである。内容は次のようなものだ。 「○○病院がいいよ。おとなにだまっててくれるから」 こんな議論が携帯電話上でなされているのだ。教育を実践するおとなの性に対する認識は自分たちの価値観や経験で止まっているので、今の時代の子どもたちには通用しなくなっているのではないか。統計的な数字がないので、個人的な高校生からの話なりでの判断になるが、私の高校時代よりも今の高校生のほうが性的関係を持つ割合は高いと思う。こういった流動的な時代に合わせて、取り組みも流動されていかなければならないという単純な図式であるが、おとながどこまで深められるかで救えるのか否かが決まる。 社会矛盾がネット上で表面化されていることは認識しているが、子どもが不安や悩みを相談できる環境が家庭や学校にないこともわかってきた。深夜に私の携帯電話に登録していない番号から電話がかかってきたことがあった。 深夜二時、電話が鳴り出し私は起こされ、 電話をかけてきた2名の生徒は、保護者にも先生にも相談する関係になかったんだと思えてきて、さらに、私が感じたことは、「今の時代のこどもたちは本当にしんどい思いをさせられている」とも感じた。クラスの中かどうかはわからないが、何らかの人間関係のくずれが原因で、自分の名前がネット上に書かれて中傷されるのではないかという不安が常につきまとうようになり、寝る時間を惜しんでまで掲示板をモニターし、書かれてしまったときには相談相手がいないのだ。子どもたちの中で希薄な関係性が築かれていき、些細なことで掲示板に書いてしまうのだ。 また、某高校で講演をする前に、6人の生徒と話をする機会をいただいた。その時、 私が個人的に腹立たしく思うことはいくつかある。ネットに関わる問題については、日本だけで完全に解決することが不可能なことは理解されている。しかし本来、行政や学校等でもできるはずの「予防・早期発見・救済・支援・規制等」の立法や条例措置、教育や啓発措置が整備されておらず、整備しようという動きすら大きなものになっていない。言い方は非常に厳しいが、ネット上の問題は「起きうるべくして起きた」事件や事象であると感じている。むしろおとなの意識や認識不足が引き金になったと言っても過言ではない。 (財)反差別・人権研究所みえ |
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